イベント

水曜朝礼

DATE : 2010/9/9
日程:2010年09月08日(水)

今週の「水曜朝礼」は
 中学2年C組担任の堀内先生と
 高校1年副担任の土田先生よりお話がありました。

-堀内先生-

おはようございます。
中2と中3で英語を教えている堀内です。今日、私がちょうど皆さんぐらいのときに出会った人たちのことや出会いの中で、考えたり気が付いたことを少し話したいと思います。

父は転勤をよくする銀行員で、あるとき海外転勤になりました。「引越しがちょっと遠くになっただけ」と考えていました。ところが転校してみたら、幼・小・ 中・高で約千人いる生徒のうち、9割ほどがアメリカ人。日本人は十人前後という、英語で暮らすインターナショナルスクールでした。

仲良しになった友達の一人に、「ダオ」という女の子がいました。彼女がある時言いました。「私ねえ、国でね、ベッドで寝ていたら、屋根を突き抜けた機関銃 の弾が私の横30センチのところを走ったことがあるのよ。」そのとき思わず思いました。「なんの話?戦争している国?」なんだか彼女の国の様子を聞いては いけないような気がして、詳しいことを聞けませんでした。日本語で「星」という意味の名前を持つ友達には、「外交官の父がドイツに赴任することになっ た。」と分かれてから会っていません。今、彼女の祖国はもうありません。当時「南ベトナム」とよばれた国は、今ではベトナムという統一国家になっていま す。彼女は、サイゴン陥落を生き延びたのでしょうか。

あるとき、中国人の転校生と前からいる中国人の男の子が、英語で何か話していました。転校生は英語が上手でなかったので、「中国語で話したら?」と私は言 いました。でも二人とも英語で話し続けました。さてここでクイズです。「どうしてこの二人は英語で話し続けたのでしょうか?」次の3つから1つ選んでくだ さい。①学校では英語しか使ってはいけないことになっていたから。②英語の勉強のため。③二人は同じ言葉をしゃべれなかったから。では、答です。それは、 3番です。「中国人」と言いましたが、出身地が違ったのです。中国語といっても広東語、北京語、福建語などいろいろあって、二人に共通の言葉は英語しかな かったのです。一つの国でもしゃべる言葉が違うということを、そのとき初めて知りました。びっくりしました。また疑問もわいてきました。どうやってそんな 人たちを一つの国として統治できるのでしょうか。そのような国では、国語はどうなっているのでしょうか?興味を持った人は、「公用語」「共通語」という概 念を調べてみてください。

さて、最後にある男の子と女の子のエピソードを。同じ国から来た二人でしたが、今考えるととても失礼なコメントを私はしてしまいました。「二人ともぜんぜ ん違って見える!」そうなんです。一人は「アラブ風」、もう一人は「ヨーロッパ風」だったのです。国の名前は、「イスラエル」。私のコメントに対して、女 の子は「父は、ポーランドから来たのよ。」といいました。それを聞いて、「アッ、アンネの日記だ。アウシュヴィッだ。生き残りだ。」と思いました。アンネ はオランダに住んでいたユダヤ人で、第二次世界大戦のさなか、ユダヤ人であるがために隠れて暮らし、見つかってからは強制収容所に入れられ、15歳で死ん でしまった女の子です。「アンネの日記」は隠れているときに書かれた日記です。アウシュヴィッツというのは、ナチス・ドイツが占領地ポーランドに建設した 最大規模の強制収容所として有名です。ですので、戦争後にポーランドからと聞いて、「生き残り」と考えたわけです。本当に衝撃的な出会いでした。世界史が 本の中の話でなく、生身の人間の歴史として感じられた一瞬でした。

ほかにもいろいろな人たちに会った学校生活でした。今でも忘れないでお話できるということは、インパクトのある体験だったからだと考えます。皆さんは、私 が子どもの頃と違い、夏休みの家族旅行で外国に行けるような時代に生きていらっしゃいます。チャンスがあったら、異文化体験、多文化交流を経験してみては いかがでしょうか。

今日は、私の話を聞いてくださってありがとうございました。

-土田先生-

おはようございます。
神奈川県で最初に出来た私学は隣のフェリス女学院です。本校は14番目に創立された古い歴史を持つ学校です。
学校は数年後、この地を離れますが、この石川町と言う地は、JRを挟んで、横浜に向かって右側は、中華街、山下公園、港の見える丘公園と華やかな観光地で す。それに対して、左側は、日雇労務者、浮浪者、外国人の方々が肩を寄せ合って生きている地域があり対照的です。私の妻の実家は、その町の入口近くで町工 場を営んでいました。土曜日になると妻は子供を連れ、実家に遊びに行き、私が車で拾って家に帰るということが恒例でした。

迎えに行ったある日、実家でお茶をごちそうになっていたその時、外から「バーン」と言う大きな音が聞こえてきました。家の中にいた家族全員が外に飛び出る と、道路にリヤカーが引っくり返り、自転車の横に一人の初老の浮浪者風の方が頭から血を流し、座り込んでいる姿が目に飛び込んできました。横にアメ車の大 きなワゴン車が止まっており、交通事故だと瞬間に判断できる光景です。ワゴン車の窓は濃い色のフイルムが貼られ、中がまったく見えませんでした。
しばらくして、車から二十代半ばの背の高い茶髪の青年が降りてきました。彼は、血を流している老人に「大丈夫ですか?」との声をかけることもなく、携帯電 話を取り出し話し始めました。もう人だかりは二十名近くになり、皆、彼が警察あるいは救急車を呼んでいるのだと思いました。
電話を切った後、平然と車に乗り込み、突如車が走り出したのです。「あー」と心で私は叫んでしまいました。多くの目撃者がいたのにまさか!そのまさかが起 きたのです。その車の後姿を見て、まるであたかも虫を踏みつぶしただけだとも言わんばかりに走り去って行ったと感じ、怒りが込み上げてきました。
とっさに家族全員車に乗り込み追いかけました。捕まえると言うことではなく、車のナンバーを確認し警察に通報したかったのです。車は伊勢佐木町の路地に入ったので、スピードを出し追いかけましたが、運悪く私の車は赤信号につかまり見失うことになってしまいました。

家に帰ったのは、事故が起きてから40分程経過していました。警察に電話をかけ今までのことを伝えました。
警察によるとその老人は、リヤカーを自転車で引っ張り静岡から、箱根の山を越え二日前に横浜に到着し、中村橋の下で二日間過ごし事故に遭ったそうです。
私は、人道的に許すことができないと訴え、必ず犯人を捕まえて欲しいと訴えました。帰ってきた答えは、私の予想に反し、「今回のような事件はなかなか捕まえることが出来ない」との答えが返ってきました。
私にとって警察特集のテレビ番組で見るイメージは、地べたに這いつくばり痕跡や車の破損部品を探し、ひき逃げ犯人は絶対に捕まえるとのイメージがあり、その発言に驚きを感じました。
後から考えると、もし被害者が私だったら、社会的地位の高い校長先生だったら、同じ対応をしたであろうかと考えてしまいました。法の下では皆平等という考えが崩れ去ってしまいました。

中央大学との合併を目前にし、今回の入試面接で私の担当した受験生の半数は「法学部に入り、弁護士になりたい」との発言をしていました。「どうしてなりたいのか?」と質問すると、「困っている人や弱者を助けたい」との言葉が返ってきて嬉しさを感じました。

勉強するということは、学校だけではなく、例えば、パテェシエの方は、美味しいケーキを作るために勉強し探求します。お客様が自分の作ったケーキを美味しそうに食べる姿を見たいからです。
学習することは、自分を向上させるためではありますが、その知識を周りの人に役立てるのが最終目標だと思います。
その様な考えを忘れずに勉強に励んで欲しいと思います。